The Holy of Holies

ひたすら自分に優しい日記




塚本晋也監督により、大岡昇平の『野火』が映画化されたとのこと。(7月25日公開)
またもや恥ずかしながら未読だったので、読んでみることにしました。(未読の名作が多すぎるのだよ!)
大岡昇平はあまり関わりたくない作家だったのですが(『レイテ戦記』でどよ~となってしまったので)、映画の予告がざわざわするほど吸引力があったことと、何より人肉嗜食について描かれた小説ということで興味を持ったのでございます。

以下、ネタバレ全開となりますので、ご了承くださいませ。






はたして主人公は人を食べたのか食べなかったのかという下世話な興味本位とに加え、きっと何とも言えない暗澹たる気持ちになるだろうから、それなりの覚悟を持って読み始めたのですが、が、が・・・・

読み始めてビビりしました。
文章が素晴らしい・・・。紛れもない正しい日本語によって技巧を凝らした文章と、普遍的な作品の持つ力に圧倒されました。
ジャンルは戦争文学らしいですが、これは戦争文学というよりも、まず文学の傑作です。
大岡昇平ってもっと硬い、頭痛くなるような文章かと勝手に決めつけてたのですが、この『野火』の文章は、淡々としながら熱っぽく、正確なのだけど実に柔らかで、硬いテンポの中に絶妙な外しがあり、顔を背けたい内容を描いているのにどうしても読まされてしまう重力があり、いっぺんで大岡昇平の文章に魅了されてしまいました。

終局に至っては神々しいまでに屹然と睥睨するするかのような、圧倒的な筆致で一気に幕が下ろされています。
何というか、黙示録の天使のラッパみたいな文章でした。
カニバリズムや戦争を描いたものが、ここまで流麗な文章で書かれた文学作品だったことが衝撃でした。

敗北が決定的となったフィリッピン戦線で結核に冒され、わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵。野火の燃えひろがる原野を彷徨う田村は、極度の飢えに襲われ、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の屍体に目を向ける……。平凡な一人の中年男の異常な戦争体験をもとにして、彼がなぜ人肉嗜食に踏み切れなかったかをたどる戦争文学の代表的名作である。 (新潮文庫のあらすじより)



およそ戦場というところはあらゆる理不尽さが起こりえる場なのだということを、主人公が辿る境遇を見ながら私たちは改めて思い知らされます。
この作品はフィクションだが、似たようなことはそこかしこで起こっていたのだろうか。70年経った今でも、実際何があったのかは検証できていません。元兵士の方たちによる証言が行われていますが、証言するとき事実の取捨選択があったはずであり、戦友と遺族への思いもあったはずですから、実際はどうだったのかは不明のままです。
1941年から1945年の間がぽっかりと暗黒の空洞が空いている。その上に書かれたフィクション。何が虚で実なのかわからないところが怖い。怖いというより底知れない不気味さを感じます。

作品は、理不尽極まりない戦場での日々がすべて溢れんばかりの豊かな自然の中で描かれていきます。
『野火』は風景を描いた作品でもあります。
そしてとても醒めた目がある。どこか自分で自分の運命を嗤っているような、冷たく醒めた視線が全編を貫いているのでした。不愉快、不快極まりない、2度と見たくも聞きたくもないものに対する嫌悪感のようなものともいえます。これが作者の、あの戦争に対する姿勢なのでしょうか。
また醒めた視線は生還を果たした元兵士の視線というより、文学者としての視線です。だから過酷な戦争文学が、あまりに凄惨すぎて喜劇に思える悲劇の舞台のように成立している。まるでシェイクスピアのように。
事実を事実として描くのではなく、虚構という濾過を通して深く深く掘り下げ、検証を積み重ね、ついに真実へと至り、作品となる。これが小説というものであり、読み継がれる作品なのだとしみじみした次第です。

さて、この作品ではキリスト教が扱われています。
作者は戦地という極限状態において、神という存在を引き出し、人間性について問い質していきます。

主人公は敵の砲撃から逃れ、1人で丘陵地帯を彷徨っているうち、景色に十字架を見つけます。林の向こうに教会があるらしい。その教えは少年期に傾倒しながら青年となって否定した宗教であり、今戦っている敵国の教えである。にも関わらず、主人公は危険を冒してその教会へと足を踏み入れます。
そこで見たのは無数の日本兵の屍体でしたが、主人公は淡々と観察するのみです。敬虔さに打たれることを期待した内部のキリスト像や装飾品を見ても寂寥感しか感じなくなっている。彼は偶然、教会で現地の女性と遭遇し、殺してしまいます。生きることなど諦めていたのに、生き残るために本能的に殺人を犯す。
ここは戦場であり、戦争とは人と人とが殺し合うことだ。であるならば現地の女を殺したとしても、それは当たり前の行為なのである。彼は自分を正当化して、仕方なかったことだ、事故だったと納得しながらも、心は悲しみを感じている。
彼は戦争という異常な世界を認識しながら、その異常な循環の中に自分が入り込んでしまったことに気づいているのです。
そして救いを求めるように、神について執着するようになります。否定し失望した神に縋ろうとします。
とても都合がいい。困ったときだけ神を持ち出すのは実に日本人的です。言い換えれば、それほど追い詰められていたということなのでしょう。
無意識では理性が働いているものの、それは認識されることなく、表層的に彼は理性と本能の板挟みに陥っていきます。
現地の女性を殺したという殺人の罪を犯した自分は罰せられなくてはならない。誰に。彼は自分が制裁を下すべきだと考える。ということは、罪を犯した自分と、制裁する自分とがいなければならず、精神は2分されなければならない。
そして彼は自分を見続ける目を感じ始めます。彼は他の誰よりも、神の制裁を恐れているのです。

状況は刻一刻と地獄の様相を呈していき、主人公は生きることに絶望を感じていきます。死ぬことを待っている。しかし自ら死のうとはせず、生きるために動く。精神的にはいつ死んでもいいと願っているのに、肉体が生きようとするのですね。
そうして林を敗走しているうちに、飢餓感は如何ともしがたく、ついには剣を抜いて屍体から肉を削ごうとします。そのとき剣を持つ右手を左手が掴む。本能を理性が押しとどめるのです。
けれどこれが引き金となって、精神のみならず、彼は右半身と左半身が別もののように感じてくる。
彼の中で本能と理性が完全に分かれ、精神が2分されてしまった。
彼は神に祈ろうとする。しかし祈りの言葉が出てこない。なぜなら体が2分されてしまったから。祈るためにも彼は身体を変えなければと考えるようになります。
行き倒れになる寸前、彼は谷の向こうの梢から飛び立つ鷺とともに、自分の魂が飛び去ったと感じます。「魂がなくなった以上、祈れないのは当たり前だ」と思い、「今は私の右半身は自由だ」と認識するのです。
けれど神は姿を現さない。

主人公は行き倒れになったところを2人の戦友に助けられ、干し肉を食べさせられます。彼は命をつなぎ止める。肉はうまかった。何の肉かと問えば、猿の肉だという。
主人公はそれが何の肉か知っていた。知っていたからこそ、悲しみに貫かれた。左右の身体が合わさったと感じた。
干し肉を食べきってしまった3人は食料の調達に出なければならなくなります。食料とは何か。そして3人は食い合うために殺し合いを始めるに至るのでした。
1人が殺され、糧として転がったのを見たとき、主人公は吐く。吐きながら怒る。すなわちこれは神が自分の身体を変えたからであり、自分は天使なのだと認識する。そして残った戦友を殺す。

ここで記憶が途切れ、主人公は復員し、6年後精神病院へと収監されています。
過去を思い返すと、自分は人肉を口にしておらず、誰も殺していないという記憶が甦ります。
つまり彼は記憶を改竄しているのでした。
島の人間を殺し、戦友を殺しながら、自分のことを天使であると言い放ち、神の姿を捜す、この常軌を逸した都合良すぎる傲慢さ。
その果てに彼は全ての現実を自分の中で書き換え、書き換えられた現実すなわちおのれの内面を彷徨い、神を勝手に見つけ、賛美する。

彼はなぜ記憶の改竄などしたのだろう。確かに自己欺瞞からではある。なぜ自分の行いを受け入れなかったのか。
さらに、欠落した記憶の日々、彼はどうやって生き延びたのか。何を食べて生きながらえたのか、という不要な想像まで掻き立てられてしまいます。

おどろくべきは魂が飛び去り、肉体の本能で生きる主人公の生命力です。彼は生きようとしたのですね。
しかしその生命力が彼を苦しめる。失ったはずの左半身が生き抜いたことに恐れ戦き、記憶にフタをしてしまった。精神は肉体を理解できず受け入れられない。
残っていた人間性による自責の果てに、主人公の精神は壊れる。
主人公は己の人間性によって崩壊し、崩壊しなければ人間ではいられなかった。
道徳心も理性も捨てた自分を庇護しつつも、その人間性ゆえに自分を断罪し、ついに崩壊する。狂気に走ったとき、神は主人公の前に姿を現すのです。

ところが神は姿を現すのみで、彼を受け入れはしない。
ここらへんは日本人が持つキリスト教の神に対する認識ですね。いかにも付け焼き刃の信仰しか持たない人間の縋り付き方で、こういう書き方をする作家の視線が怖い(T.T)

さて、ここで主人公が縋る神と対比して思い出されるのが、松永という若い兵士です。
松永は彼に干し肉を食べさせ命を救い、そして最後に撃たれて殺されます。松永が林の中から瀕死の状態の主人公を凝視しています。その目を主人公は「厨子の中に光る仏像の眼のような、二つの眼だ。」と感じるのでした。
ここで実は別の神が描かれているのです。それともこの仏を連想させる神は、主人公が執着していた神の、別な一面、分身なのかもしれない。主人公が2つに引き裂かれたように。
1つの神は彼を断罪し、もう1つの神は彼を肉体的苦痛から解放する。
そして主人公が完全に発狂したとき、神ははっきりと姿を現す。
もう神の救いとか生易しいものはない。救われるとしたら、彼が命を絶つしかない。まぁ彼は幻影の野火に灼かれて命を絶ったのだろう。
野火というのはフィリピンの人が行う野焼きで、その土地は食べ物があるということであり、また日本人を恨むフィリピン人のことでもあり、死の象徴でもあります。
彼はずっと遠巻きに野火を見ていますが、火はいつしか彼の内部に燃えており、ついには自らその炎へと向かうわけです。
結局、主人公は自分で自分を裁いたのですね。
しかし他に誰が主人公を裁けたというのでしょうか。

主人公はごく平凡な一般市民でした。せいぜい虫を殺したことしかなく、刃物といえば小刀か包丁を握ったくらいで、ましてや銃など見たこともなかったはずです。
そんな平凡で静かな生活を送っていた者が、いきなり旧式の銃を与えられ戦場に送られる。いわば究極の理不尽さに人生を奪われたのです。それはこの国の人間が経験した中で1番の理不尽さだといっていい。
平凡で凡庸な一市民であった主人公の身に起こったことは、あの時代の人間ならば誰の身に起こっても不思議ではなかったということで、では現代に生きる我々が70年前に生きていたらと容易に考えさせる。つまりこの小説は田村一等兵の物語でありながら、我々の、「私」の物語なのです。これが普遍的作品というものです。

ムダに長く、まとまりがなくなってしまいました。
あとで、直そうと思います。でも読み返したくないな~・・・難しすぎるのよ・・・わけわからねェ。゚(゚´Д`゚)゚
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